《次へ》
|
||
弊社代表取締役社長 加藤均氏が7月5日永眠いたしました。行年93歳。 7月9日、本願寺堺別院で告別式が厳かに執り行われました。 |
||
「加藤均氏を偲んで」 |
||
堺市功労者、元堺市議会議員の故加藤均様のご逝去に際し、謹んで哀悼の言葉を申し上げます。 加藤様は、堺市議会議員として昭和42年以来連続11期44年の長きにわたり活躍されました。平成18年の堺市の政令指定都市移行に際しましては、政治・行政をはじめとする多様な分野の人脈を活かして大きなお力添えをいただきました。こうしたご功績に対し旭日中綬章を受章されています。 また「堺国際交流協会」や「日越堺友好協会」の設立、在大阪ベトナム社会主義共和国総領事館の堺への誘致にご尽力され、平成21年から毎年開催しています「堺・アセアンウィーク」にもご協力をいただきました。 生涯にわたり国際交流を通じて世界の平和を希求し、住民福祉の向上と堺市の発展に多大な貢献をされました。 「アセアンと堺~過去から未来へ~」と題された加藤様のエッセイでは「内川・土居川を行く船は過去へ遡るのではない。未来へと船出をするのだ。過去を顧みながら、未来を見出す」と記されています。 加藤様が多岐にわたるご活動の中で身をもって示された熱い思いを胸に刻み、「歴史」のまち堺から「未来」を創るために全身全霊を注ぐことをお誓い申し上げ、お別れの言葉といたします。 |
||
|
||
加藤 均
|
||
父の人生を振り返りますと事業、国防、国際交流に心血を注ぎ、何をするのも相手の方に喜んで頂く事を自分の喜びとし、感謝の気持ちを持って、お人と接することを大切にしてきた人だったと思います。 そんな父は常に夢を抱き「一生勉強、一生青春」を信条とし、どんな困難があっても生涯現役を貫き通し、悔いのない人生を送れたのも、ひとえに皆様方に愛され、大事にして頂いたからだと感謝致しております。 父が最後に私たちに残した課題と宿題は、「事業」は株式会社加藤均総合事務所 社長 加藤浩輔と社員に、「国防」は孫の加藤敬大に、そして「国際交流」は私、加藤博美に継承していくようにという事でございます。私たち全員で頑張っても、父一人分にも及びませんが、どうか父にお力をお貸し頂いた時と同様、残された私たちにもお力添えをいただくと共に、ご指導頂きますようお願い申し上げます。 |
||
加藤 博美 |
七月五日、加藤均先生が永眠されました。平成二七年に防衛大臣から感謝状が贈呈されましたように、四〇年以上にわたる防衛省・自衛隊へのご協力とご援助に、心からの御礼を申し上げます。 加藤先生は、「国民の皆様に自衛隊の活動を正しく理解していただくため」に支援活動をしてくださり、その実績は、海上幕僚長、中部方面総監、呉地方総監、自衛隊大阪地方協力本部長ほか、現場を預かる各部隊指揮官からも感謝状が贈呈されたことに象徴されていると思います。 また、元呉地方総監の筆者としましては、「潜水艦救難艦ちはや後援会」「護衛艦いせ後援会」の会長としてお務めいただき、両艦の堺入港時など、多大なご支援・ご協力を賜りましたこと、心から感謝申し上げます。 特に「護衛艦いせ」の艦名板にある「いせ」の文字は、伊勢神宮の大宮司様が直接筆をとられたものですが、これは極めて異例なことだったとお聞きしています。またこの艦名板も、式年遷宮時の宇治橋改修で、お務めを終えた橋の一部だそうです。さらに「いせ」の乗員は、訓練の合間に毎年鳥羽港に仮泊し参拝しておりますが、正宮内において宮司様からのご祈祷を受けさせていただいております。 「伊勢神宮との深い関係が築けたのは、全て加藤先生及び後援会の皆様のおかげです。」と、お通夜に参列していた森田和行第二代先任伍長は頭をたれ「感謝してもしきれない。」と申しておりました。 一方、加藤先生のライフワークの一つである「国際交流」によるベトナムとの強固なご関係は、ベトナム海軍艦艇の堺への初寄港に帰結しました。 海上自衛隊とベトナム海軍との交流は、二〇一六年に海自艦艇がベトナムのカムラン湾に初寄港したことから始まりましたが、ベトナム海軍艦艇の日本への初寄港は、二年後の二〇一八年九月末~十月上旬になりました。 最初に立ち寄った横須賀は、海自の基地があり支援は容易でしたが、次の堺への入港は、「心配していた」とお通夜に参列していた村川豊元海上幕僚長は述懐し、「加藤先生のご尽力がなければ成し遂げられなかった。」と申しておりました。加藤先生による堺市との調整が、ベトナム海軍艦艇の初寄港成功には欠かせない要素だったのです。 先の参議院選挙の争点として外交・防衛問題が上位になったように、日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増していますが、加藤先生にはどうか天国でお見守りください。 |