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88歳 堺在住 オペラ歌手

『遥かなる道~夢見た世界』(7)

田 中 公 道

 1986年(昭和61年)から1987年3月まで、大阪芸術大学・塚本英世記念国際交流計画に基づく文部省海外派遣留学のチャンスを得た。49歳となった私が長年歌い築いたベル・カント発声法の集大成となる最後の機会だった。
 オペラ研修所「カルロ・コッチャ」会長のアントニオ・スプルッォラ・ゾラ氏は、イタリアオペラの声の伝統を高いレヴェルで身に付けていたことから、狂いの生じた私の歌声の在り方・響きの鈍い太い声の修正点を的確に指摘していた。それはデル・モナコ氏の元で体感した錯覚でもあった。
 国際基準となるイタリアの発声「男声は1~2kHz帯域の強い高音域倍音と共にその高音域倍音が全音域へ及ぼす歌声」に、声量は声のパワーではなく「声の響きの密度と共鳴の量」に、それが「ヴォーチェ・キアーラ」明快でシャープな歌声となり「声の老化」を防ぐ発声へとつながった。
 苦節の末、会得した世界主流な「イタリア的歌声や高音」であっても、日本で長く歌い続けていると、いつしか日本人風な感性と歌声に戻ってしまう。民族性と血がそうさせると考えた私は、常に世界に出て各国のオペラ歌手と歌い競ってレヴェルを高め、その間3度のイタリア留学でその都度、狂いが生じた歌声や高音の在り方をイタリア的に是正して来た。
 加齢と共に日々起こる高音域ポジションのズレ、舞台で高音域の不出来を感じた時、即座にそのズレの修正を試み、新たな高音の在り方を次の舞台で実践する、その連続で今日まで歌い続けて来た。
田中公道・テノール(Kohdo Tanaka)
 2024年 世界を駆ける87歳のオペラ歌手テノールリサイタルを帝国ホテル大阪や米子市公会堂など12都市で40回開催後8月から23回目の南米公演ツアー開催。
 中国全土の主要大学を延べ70大学、16芸術団で1,247人の教師と学生の声楽指導で22大学から名誉教授、客座教授の聘書を受ける。
 中日文化交流国際賞、邯鄲市文化大使、ブラジル/カルロス・ゴメス・メダル章、カンピーナス市議会・文化功労賞、サンパウロ州立法議会・文化章、ブラジル―日本移民110周年・笠戸丸章、石見銀山文化賞、外務大臣表彰など99回の受賞歴。
 海外イヴェント1,095回、内外で約2,650回の公演数を重ねる。
 現在88歳。100歳現役をめざす。

88歳 繊細で力強いテノールを聴かせる(2025年10月 兵庫県立芸術文化センターで)88歳 繊細で力強いテノールを聴かせる(2025年10月 兵庫県立芸術文化センターで)

“静かな場所(大寺さん)”
堺 町並み スケッチ(307)
野 村 亜紀子

堺の建物

 年々寒さが厳しくなり、身体にこたえると実感。まあ外出をしなくていい日常なので助かります。スケッチ好きの私にとって、若い頃は何の苦にもならなかったものです。北海道から九州迄、車を走らせ行った事など嘘のようです。今は近場の用事と買い物だけ、走行距離が延びません。描きたい気持ちと、動けない身体、それでも、歩けるので近場の神社・仏閣。チンチン電車、どんどん高くなる町の景色等々、昨年秋の終り頃、開口神社の裏にまわり、その静けさに感動。雀や鳩の鳴き声と風に吹かれた木々の葉擦の音、高い土塀が音を消すのか、空気も違って感じる別世界が有りました。自然に包まれた幸せなひととき。身も心も洗われた思いに。日々老いる、悲しさを忘れる一瞬〝自然の力〟それが表現できるといいのですが、感動を伝える―。同じ気持ちになっていただけたら、伝わるでしょうか。
 神社といえば、いつの頃からか並んでお参りをしていますが、私達は、賽銭箱に群がって拝んでいました。いつ頃から並ぶようになったのでしょう。さて寒さ本番風邪などひかれませんように、元気に春を迎えましょう。



(一回笑うと一日若くなる)(74)
小野田 隆

認知症ケア指導管理士

馬年に思う
―ドバイで見た未来と、日本の幸せ―

個性的な外観のドバイ(ワールドトレードセンター)個性的な外観のドバイ(ワールドトレードセンター)

 今年は馬年。何事もうまく運び、思い描く人生が駆け出してほしいものだ。
 振り返れば私はこれまで、人の忠告には耳を貸さず、「馬の耳に念仏」「馬耳東風」で生きてきた。しかし「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」という言葉に背中を押され、昨年十一月、中東・ドバイを訪れたことが、人生観を少し変えるきっかけとなった。
 とりわけ印象深かったのが、アラブ首長国連邦(UAE)の「未来博物館」である。そこは未来社会を〝展示する〟のではなく、すでに〝実現している〟空間だった。ヘリウムを活用した次世代技術、空中を走る自動車の構想など、十年後の世界は今とは全く異なることを実感させられる。
 館内では、米国と世界の関係の変化、インドの台頭、AIがもたらす希望と脅威、気候変動や人口減少、遺伝子技術の進展など、人類が直面する未来像が提示されていた。日本ではまだ現実味を帯びないテーマばかりである。
 未来博物館は入館料約8千円、予約は2か月待ち。運営の中枢はUAE国民が担い、受付や案内、売店は外国人労働者が支えていた。UAE国民は教育費・医療費が無料で、文化の継承に力を注いでいる。石油・天然ガス収入は今や一割以下。アルミニウム、防衛関連産業、観光、不動産、仮想通貨へと経済の軸足を移している。
 街を走る車は景観維持のため定期的に新車へ更新され、白色が主流だ。世界各地の食材が集まり、ホテルの朝食には刺身まで並ぶ。海水淡水化の副産物は夜の噴水ショーとして観光資源に変えられ、王族の資金運用の巧みさにただ驚かされた。
 だが帰国して思った。コンビニがあり、焼き魚を食べられる日常こそ、何ものにも代えがたい幸せなのではないかと。「足ることを知らぬ者は、富める者であっても貧しい」。そんな言葉が胸に残る。ひがみつつも、考え、やってみよう。
 「やらまいか(よし、やってやろう)。Just(do(it。」
 楽しくても、そうでなくても、今年も笑って生きたい。笑う門には福来る。笑顔万両。「ホホハハハ、ホホハハハ。」
小野田隆
岡山県瀬戸内市出身、元近畿大学社会学講師、広島大学卒、団塊世代、認知症ケア管理士、上地流空手二段、著「笑わずにはいられない」、ラフターヨガ普及中


国防と神社(93)
神奈川県出身戦没者の慰霊顕彰

日本経済大学准教授 久野 潤

 この連載の中で度々言及している護国神社では、現在「全國護國神社會」所属の52社がよく知られている。これは、各地域で幕末以来の地元出身殉難者・戦没者を祀る神社(招魂社)が、昭和14年(1939)内務省令により「■■護国神社」と改称された際、その中でも内務大臣が特に指定した各道府県メインの(社格でいえば府社/県社に相当する)護国神社がひとつのベースになっている。
 そうした県メインの護国神社たるべく起工されたものの、(靖國神社を擁する東京を除き)昭和20年の大東亜戦争終戦の時点で鎮座していなかったのが宮崎縣護國神社・熊本縣護國神社そして「神奈川縣護國神社」である。宮崎・熊本は昭和27年のサンフランシスコ平和条約発効後に造営が再開され、それぞれ昭和30年・同32年に創建された。
 神奈川では昭和17年、横浜市神奈川区(現在の三ツ沢公園)で建設中の社殿が昭和20年5月に横浜大空襲で焼失し、戦後も再建されなかった。同地には昭和28年に横浜市戦没者慰霊塔が建立され、「西南戦争から第二次世界大戦までの戦争犠牲者の慰霊を安置」(説明板より)している。
 ただ、県メインの護国神社が無い=県出身戦没者の慰霊顕彰が行われていなかったというわけではない。明治3年(1870)伊勢の神宮から勧請され、横浜の総鎮守として崇敬された伊勢山皇大神宮(横浜市西区)では、西南の役後の明治11年には境内に「明治十年西征陣亡軍人之碑」が建立された。題字は三條實美太政大臣による揮毫で、戦前は碑前で県知事等が参列し毎年招魂祭が斎行されていた。
 現在では秋分の日に伊勢山皇大神宮境内にて、市内近隣の野毛地区出身の大東亜戦争戦没者に加え、西南の役から大東亜戦争までの神奈川県出身戦没者が「子之大神氏子地域戦没者慰霊祭並びに平和祈願祭」(子之大神は野毛地区にあったが戦災で焼失し、同境内末社の杵築宮合殿に合祀)で慰霊顕彰されている。その際「明治十年西征陣亡軍人之碑」と、日清日露戦役の戦没者を祀る彰忠碑(明治40年建立、大山巌元帥揮毫)および横浜商業学校出身の日露戦争戦没者を祀る表忠碑(明治39年建立、乃木希典陸軍大将揮毫)の三碑の前には献花が行われる。
 英霊慰霊顕彰については、「護国神社があるかどうか」に加えて「祭祀が行われているかどうか」が重要である。