前回は長州藩の支藩地域における招魂祭、そして現在も当地の護国神社で殉難者・戦没者が英霊として慰霊顕彰し続けられていることに触れた。それらが国家的に行われるようになった象徴が靖國神社であるが、国家的な英霊慰霊顕彰を主張したのはいわゆる官軍側だけではなかった。
大規模な内戦となった戊辰の役後には、江戸城や京都の東山で戦没者の招魂祭が行われ、次いで幕末以来の殉難者も含めて祭祀されるようになる。そんな中で明治2年(1869)1月より木戸孝允や大村益次郎により東京九段での国家的に英霊慰霊顕彰を行う招魂社創建が建議され、明治天皇の勅許により同年6月に東京招魂社として創建された。これが明治12年に靖國神社と改称され、別格官幣社に列格した。
英霊慰霊顕彰は、以前の号で触れた楠公こと楠木正成という忠臣顕彰とも深い関係にある。慶応3年(1867)10月の大政奉還の翌月、尾張藩主 徳川慶勝は朝廷に楠社創建の建白を行った。その中で、国家功労者特に一命をなげうった者を神として祀ってきた先例を挙げ、皇都(京都)に国家として楠公を祀る楠社を建立すべきことを説いた。実は慶勝はここで、幕末以来国家に尽くした殉難者・戦死者で「未御収恤不蒙者」すなわち祀られ顕彰されていない者たちを、その楠社の摂社で慰霊することを主張しているのである。
もしこの通り実現していれば、現在の湊川神社にあたるものが京都に創建され、そしてその境内の一角に靖國神社が建立されたはずであった。しかし翌慶應4年1月に鳥羽・伏見の戦いから戊辰の役が勃発したため、徳川御三家である尾張藩によるこの構想は成らず、「楠社」も楠公戦死地である現在の神戸市中央区に創建されることとなる。ちなみに明治5年5月に落成した東京招魂社の本殿は、旧尾張藩出身の伊藤平左衛門による設計であった。
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