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インド古典舞踊オリッシィ公演

インドの文化と女性観に触れる

堺でインドの古典舞踊を披露したイティシュリ・デヴィ女史
堺でインドの古典舞踊を披露したイティシュリ・デヴィ女史
 インド共和国建国65周年記念 『イティシュリ・デヴィ インド古典舞踊オリッシィ公演「カ・ラ・ダ」は語る〜レクチャー「インド文化と女性観」&舞踊公演〜』が6月14日、サンスクエアホール(堺区)で開催された。(主催 特定非営利活動法人 堺国際交流協会、後援 在大阪神戸インド総領事館、協力 堺市)
 出演はオリッシィ古典舞踊家 イティシュリ・デヴィ女史、ナビゲーターを務めたのは堺在住のオリッシィ古典舞踊家の柳田紀美子女史。デヴィ女史はオリッサ州立ウトカル大学で英文学の博士号を取得。アメリカ、フランス、イタリア、スイス、マレーシアなど世界の主要都市ででレクチャー公演、舞踊祭に参加。オリッサ州カマラ・ネルー女子大学教授を経て、現在IMFA(インディアン・メタル&フェロ・アロイズ)広報副部長として勤務している。才能・美・知性のたぐいまれなる組み合わせにより、世界で高い評価を受け続けている。公演には在大阪・神戸インド総領事館 バッタミシュラ副領事も来賓として訪れた。通訳は南波亘子女史(元インド総領事館通訳)、舞台監督は加藤博美女史(堺国際交流協会研究員)が務めた。
 第一部のレクチャー「インド文化と女性観」でデヴィ女史はインドの歴史、伝説、宗教観、文化、そして教育・結婚、社会進出など社会の中での女性の立場について語った。
 舞踊公演では「神迎え、弁才天の舞」、「眠れわが子よ、クリシュナよ」を披露、「ヴィシュヌ神十化身の舞」、「神送り、解脱の舞」では柳田紀美子女史と息の合った舞を見せた。優雅な踊りに会場からは大きな拍手が贈られた。
 身体、表情、手、指の動きで「神への敬愛や感謝、生きる喜び」などを表現する、東インド オリッサ州ジャガンナータ寺院に起源するオリッシィは、7つあるインド古典舞踊のひとつ。1000年以上奉納されてきた巫女による秘儀舞踊として継承されてきた。寺院を装飾するレリーフが動き出したように見えることから「生きた彫刻」といわれている。
 デヴィ女史は「今後もますます、インドと堺市の交流が深まることを願っております」と挨拶を行った。
 東区から参加した東海林暁子さんは「表情や手の動きで、伝えていることがよくわかりました。その表現力にとても感動しました」と感想を述べていた。
 堺国際交流協会の加藤均理事長は「デヴィ女史の言葉と身体表現を通じて、インドについて学び、インドの魅力を再発見するきっかけになれば幸いです」と振り返った。
柳田紀美子女史(右)とも共演
柳田紀美子女史(右)とも共演

府立泉陽高校などを視察

 インドの大学において教師を務めた経験をもつ、イティシュリ・デヴィ女史は堺滞在中に、柳田女史の母校である大阪府立泉陽高等学校(坂本信子校長、生徒数1156名・堺区)の視察を行った。音楽、英語、生物など授業や図書館、食堂などを見学、日本の学校生活の現状にふれた。デヴィ女史は「学びやすい環境の中、学生は私語も無く、熱心に授業を受けていると感心しました」と話した。また、片桐棲龍堂薬局の資料館や庭園も見学した。
泉陽高を視察、教育の現状にふれる
泉陽高を視察、教育の現状にふれる


社説

無功用行のあじわい

 現代社会は、機械化を越えて情報化も進み、絶えず効率よく成果・業績を産み出すことが求められています。人々は情報機器等を用いて自分の求めるところを実現しようとしているようで、実はそれらの機器に使われ振回されており、業績目標に向けてただあくせくと追われているのが実情かもしれません。結局、いかに大きな利益や報酬を得るかだけが関心の的になり、その人本来の主体性を喪失して、しかもその喪失していることに気付くこともできないでいるのが現代人の様相だといって、さほど間違いないでしょう。
 この悲しい状況を改革することは、そう簡単ではないでしょう。私たちはもはや、人間世界を覆う機械化・情報化にがんじがらめになっているからです。それだけに、人間が自己本来の生き方を発揮するのはどのようなあり方においてなのかを時に思い出し、余暇や仕事のなかにそのあり方を浸透させていくことは、とても大切ななことではないかと思われます。
 鈴木大拙は、アメリカで、子供の生活を描きベストセラーになった本から、次の一節を紹介し、そのあじわいを賞讃しています。
 子どもがしばらく留守し、帰ってきたので、家のものが尋ねた。「お前どこへ行っていたの?」(Where Did You Go?) 「外にいた。」(Out.)「何していたの?」(What Did You Do?) 「何もしていないの。」(Nothing)
 ここには、生きて、動いて、働いて、しかも何もしなかったという世界があります。すなわち主体のままに働き、しかもその働いたということに何もとらわれていない世界があります。それこそ自らに由るという本来の意味での「自由」の世界にほかならないでしょう。大拙は自由ということは、「積極的に、独自の立場で、本奥の創造性を、そのままに、任運自在に、遊戯三昧するの義を持っている」とも指摘しています。
 日本臨済宗中興の祖と言われる白隠は、「他の癡聖人を傭うて、雪を担うて共に井を填む」の句を大変愛しました。他の癡聖人とは、実はほかでもない本人自身の根源的主体のことです。雪を井戸に投げ入れても、一向に井戸は埋まりはしないでしょう。でもその無駄なことに励んで励んでやまないというのです。この、見返りを求めず、ただ一心に働くところ、つまり「ナッシング」というところに、禅のあじわいがあります。
 現代人の生活に、このような世界を実現することはどのように可能なのか、少なくとも忘れてしまった本来の人間性を取り戻すことは、きわめて重要なことだと思わずにはいられません。
生  田  正  輝 (慶応義塾大学名誉教授)