アセアンは「原点」に回帰した外交を

明治大学 教授  伊藤 剛

 中国国内の新型コロナウイルスに関する事情は、4月に入って多少落ち着き、各国にマスクを送付できる状況となった。そのマスクを梱包した箱には「我々は、同じ海に漂う波、同じ木に生える葉っぱ、同じ庭に咲く花(We are all waves of the same sea, leaves of the same tree, flowers of the same garden.)」というストア学派セネカの言葉が印刷されており、この「マスク外交」に対して、受益国は賛辞を送っている。
 他方、日本の尖閣列島の接続水域を通過した中国公船は、3月までで昨年の50パーセント増しになっており、また4月に入ると中国政府は南シナ海のパラセル諸島を西沙区と、スプラトリー諸島を南沙区と呼んで行政区画を設置する発表を行った。国際社会が新型コロナウイルスへの対処で忙殺されている最中にも関わらず、中国は海洋強国となる道筋をひたすら辿っているようにしか見えない。良かれ悪しかれ図体の大きくなった中国は、何をしてもその行動が目立ち、ある時は賛辞が送られ、ある時は批判の対象となる。アメリカ外交とも似た、このような「分裂病」的状況をどのように解釈したら良いのだろうか。
 そもそも、新型コロナウイルス後において米中両国が一層の対立状況となることは簡単に予想できるが、この構図は単純にGDP第一位のアメリカと、第二位の中国とが対立しているという話ではない。どうやら、国際政治そのものが質的に変化している。そもそも、国際秩序そのものについて、米中それぞれが目指すところは同じではない。いやむしろ、アメリカは自国が作り上げてきたリベラル制度から徐々に脱退しており、中国はアメリカが作ってきた制度とは異なる制度を形成するか、またはアメリカがいなくなった国際制度において一層影響力を増しているという具合である。WHOの「中国寄り」が気に入らないなら、「カネ出さない」と「カネ一層多く出す」の二つの選択肢があったはずだが、トランプ大統領は予想通り前者を選択し、結果的に新型コロナウイルスをめぐる国際協調に後向きになってしまった。
 国際政治の大きな変調は、三つに分かれる。第一に、新型コロナウイルス後の世界は、まさに弱肉強食の国際政治が再興するということである。上の中国を見ればすぐ分かる。相手国をねじ伏せるにしても、他国と協調政策を採るにしても、どちらにせよ強い国がイニシアティブを取って行く。他の国が喜ぶことをすると「リベラル」と呼ばれ、嫌がることをすると「現実主義」「強硬外交」というまったく異なるレッテルが貼られる。いずれにせよ、大国が国際政治全体を意のままに操ることができる度合いが大きくなる。
 もちろん、逆に言えば、これはリベラル制度の限界を露呈したということでもある。国境線の画定は複数の国家が集合しないとできないが、そのためには国際会議を開催し、各国の意見を聞いて、決定した国境線を遵守するという「約束」を結ばないといけない。国際関係はかつてこうした「ヨチヨチ歩きの約束事」から始まり、次第にコミュニケーション手段が進み、現代のようにグローバリゼーションが進行すると、様々な国際組織や決まりごとといった制度的枠組みが形成され、一国の力が全てではない国際関係が徐々に蓄積されてきた。国家間のパワー行使は軍事力だけが全てではないことが徐々に浸透したときに、今回の新型コロナウイルス問題が起きたのである。その意味で、パンデミックな状況は、国際政治そのものを数百年過去に戻してしまった。
 第二には、グローバル化によって「公共善(public goods)」に加えて、「公共悪(public bads)」も蔓延することが、今更ながら明確になったことである。国際的な制度が進展して、そこに多くの国家が参集したのは、そうすることによって一層便利になるという前提が存在したからである。経済学の用語を用いれば、「外部性」ということになるのだろう。しかも、プラスの外部性が、国際相互依存の進展によってもたらされていた。しかし、今回の新型コロナウイルスは、外部性にはプラスの側面だけでなく、マイナスの側面があることを知らせたのである。しかも、「公共悪」だから国際協調が起こるわけではないことが分かってしまった。つまり、グローバル化の進展は、その恩恵に与って「バスに乗り遅れるな」となるのに対し、公共悪の場合は、一気に広がる害悪から「自分だけが助かれば良い」といった具合に、これまで維持されていた繋がりを自ら断ち切る行動が多く見られている。環境、資源、人身売買、飢餓といったグローバルな問題には、これまで国際協調が比較的容易いと言われていたが、今回のように一気に広がる公共悪は、むしろ自国優位主義を助長してしまったのである。
 そして第三に、このような国際社会全体の大変動の中で、東南アジア諸国連合(ASEAN)はどのように振舞うべきか。米中両国の大きさに比べても、EUに比べても、ASEANの国際社会全体における相対的大きさは限られている。しかし、米中両国が無視できるほど小さいわけではない。
 今年のASEAN議長はベトナムであるが、そもそもベトナムが前回ASEAN議長であった2010年、ASEANは東アジア首脳会議(EAS)にアメリカとロシアを含めた形での拡大会議の開催に成功した。1995年になってASEANに加入、今となっては目前の中国からの大きな影響力をどのように管理するかが至上命題であるベトナムにとって、多くの参加国を招いて国際会議を開くことは、自国が有利不利に関わらず、東南アジアそしてアジア太平洋(最近だとインド太平洋)全体の安全保障環境を整備するのに大きな役割を果たしたのである。同様に、今年のASEANは新型コロナウイルスのような国際社会全体の「公共悪」にどのように立ち向かうかを多くの国家を入れて討議する格好の機会となるはずであった。
 このような大きな国際機関の議長役を果たすとき、どの国も国際機関全体の利益と同時に、議長となった自国の利益を実現させようとする。ベトナムの場合、南シナ海問題を中国に対して有利に展開するためにASEANを活用しようとする。
 それ自体は、別に間違いでもない。いや、むしろ中国の「海洋強国」政策は、「中国の、中国による、中国のための」海洋政策であることが多く、この南シナ海を利用する船舶全ての利益になっていないことが多い。ベトナムは船舶利用だけでなく、領土当事者でもあるため、過去数十年の嫌中感情とない交ぜになって南シナ海の議題をASEANの俎上に乗せようとする。
 それが日本も含めて国際社会の大勢の賛同を得られるように行動することが求められる。4月に開催される予定であったASEAN総会は新型コロナウイルスのために延期となったが、3月末には国連に対して、南シナ海問題の重要性を主張する文書を提出し、注目を集めた。つまり、ベトナム外交の視点は常に外に向いており、ASEANとの連携、そしてASEANでの会議を拡大して大国を巻き込むこと、こういった「外向き」のドライブがASEANの名の下に可能であったからこそ、ベトナムはASEANを有効活用することができたのである。
 しかし、国際政治全体は、この新型コロナウイルスのために、ベトナムが構想している程には、グローバルに振舞えるわけではない。ベトナム自身は、世界の中で、新型コロナウイルスの封じ込めに比較的成功している。私も2月後半から3週間ほどホーチミンとハノイに滞在した。ベトナムの新型コロナウイルス対策は見事で、あっという間に中国人を入国禁止にし、消毒と体温測定の徹底化を図った(当然、私も対象で、買出し先の警備員と何度か小競り合いになった。)。4月に入り、中国の行政区が南シナ海について宣言され、同時にダナンで開催される予定だったASEAN総会は2ヶ月以上延期になって今に至っている。
 問題は、今から1ヶ月そこらで、かつて10年前にベトナムがASEAN議長の際に采配を振るうことができたように、大国を包含した地域安全保障についての国際会議が開催できるかどうかである。
 そうなると、冷戦が終わってからASEANに加入したベトナムであるが、ASEAN外交の原点を再考して、そこに返る方法が最も良い。ASEANはその成立時、言うまでもなく東南アジアにおける「反共の砦」だった。しかし、同時に南ベトナムに批判的で「大国の傀儡にならない」という大きな決意の表れでもあった。21世紀も20年を過ぎた今日、前者の目的は消えたが、「アセアン中心性(ASEAN Centrality)」が叫ばれるとき、後者の意味合いが大きく残っている。
 大国を巻き込んで地域全体の安全保障が国際秩序を討議することが困難な今年、ASEANの役目は再度自分たちの「自立」「自治」「中心性」を再確認する場所となるだろう。これがうまくできたら、議長国ベトナムはASEAN創設から30年近く経ってから加入したのに関わらず、オリジナル・メンバー以上に「ASEANらしくなる」外交を展開する実績と自信が定着することになる。今は、「貸し」を作るべきタイミングではないだろうか。

 

伊藤 剛 氏
明治大学 教授
国際政治学研究 担当
米国デンバー大学大学院 卒
主な著書・論文
『同盟の認識と現実』(有信堂・2002年)
Alliance in Anxiety (New York : Routledge, 2003)
『比較外交政策』(明石書店・2004年)
『自由の帝国』(翻訳・NTT出版・2000年)