語るに足る人生を!〜泥棒事件始末記〜 |
人間の感情が極限まで高まると、 不思議なことに無感情にちかい気分になる。 目の前で起きていることが、 夢のように映り現実感が失われるのだ。
泥棒の被害に遭い、 楽しみにしていた帰国が絶望的になった朝、 何事もなかったようにインスタントラーメンを食べている 「犯人」 と思われる二人の使用人を見ながら、
ぼくは驚くほど冷静だった。 ほどなく学校から警備責任者が何人もの部下を引き連れて我が家にやって来た。 早速ダイニングルームで尋問が始まった。 それに先立ち、 現場検証を行った警備担当者の意見も 「内部の者の犯行」 に間違いない、 とのこと。 ぼくは、 「そんなことは明らか…」 と思っているが先ほどから無感情状態が続いているので、 声には出さず沈黙したまま。 取調べは一人ずつ行われた。 まず女中さん、 そして警備員と続く。 彼らの答えは、 とにかく何もなかった、 何も知らない、 の一点張り。 そのふてぶてしい態度を横で見ていたぼくは、 昨夜からのショックで失った怒りの気持ちを、 徐々に我が心に取り戻しつつあった。 「何を寝言を!」 と心は叫び、 さっきまでの無感情はどこへやら、 本当に叩きのめしてやりたい気持ちにさえなってきた。 しかし、 高等教育を受け、 仮にも教師という職業についている我が身、 暴力で物事を解決することの愚かさは重々承知。 そんな心の葛藤が続いている時、 いつか繁華街の市場で薬用の毒ヘビ・コブラが売られていたのを思い出した。 そいつを何匹か買って来て、 部屋に放ち使用人をそこへ押し込めたら…これは名案ではないか! しかし、 緊張した取り調べの最中、 そのようなことを言い出せる雰囲気ではなく、 このコブラ計画は幻に終わった。 警備責任者も必死になって話をしている。 あくまでも知らぬ、 存ぜぬを貫く二人に、 金は返さなくてもいいから、 とにかくパスポートや労働ビザ、 外国人登録証だけは返すように、 と言った。 そして、 20分部屋を出ている間に現金以外の書類をテーブルに戻すように、 とまるで刑事ドラマのような展開に持っていったのだ。 インドネシアで労働ビザの再発行や外国人登録などの諸手続きは極めて複雑で、 どれほど時間がかかるかわからない。 現金は諦めても、 こちらは諦めるわけにはいかなかったのだ。 そして、 20分。 望み空しく、 テーブルには何も置かれていなかった。 二人の使用人はそれから、 毎日警察に出頭し取調べを受けることになった。 ぼくが知っているのは、 そこまで。 あの二人が、 罪を告白したか、 無実になったかいまだに知らない。 しかし、 それからが大変だった。 パスポートの再取得、 労働移民局でのビザ再申請の手続き、 それに関わる事情説明や、 書類の作成。 学校の担当者が付き添ってくれたが、 それでもぼく自身が出向かないことには何も始まらず、 疲れ果てた心と体に鞭打ってジャカルタの街を駆け巡っていた。 休暇が始まり同僚たちはジャカルタを去り、 だった広い家にぼくは一人、 何とも寂しい気持ちの日々。 何しろ、 書類を再取得しなければ国を出ることはできないのだ。 いや、 出国はできるが、 ビザがなければ休暇明けに再入国ができなくなる。 そんな時、 ぼくは大学時代からお世話になっている作家のなだいなだ先生に手紙を書いた。 先生がぼくの故郷にお住まいになっていることもあり、 帰国する度に色々なお話を伺っていた。 今回もそれを楽しみにしていたが、 それが叶わなくなりました…と訴えるぼくの手紙は悲痛な感情を先生に伝えたのだろう。 先生は、 すぐに返事を下さった。 「加藤くん、 幸か不幸かを価値の基準におくよりも、 君の人生が語るに足るかどうか、 そのことが重要ですよ」 との言葉。 何というコペルニクス的転回!これによって、 ぼくは何とかその苦難を乗り越えることができた。 それ以来、 ぼくは冒険を恐れなくなった。 (実は、 今でも意気地なしではあるが) 降りかかる 「不幸」 を嘆き悲しむより、 その事実を見つめ生きつづけることに意味を見出すようになったのだ。 ジャカルタにおける最大の不幸 「泥棒事件」 は、 ぼくにこのような哲学的思考をもたらしてくれた。 なだ先生には大いに感謝している。 ついでにそのきっかけを作ってくれたあの二人の使用人にも感謝を…と言いたいところだが、 そこまで人間はできておらず、 いまだに 「コブラ作戦」 を実行すべきだった…と後悔の気持ちを持っているのである。 |
NPO法人 堺国際交流協会 東南アジア研究所主任研究員 博士 加 藤 久 典 ナショナル大学客員教授(インドネシア・ジャカルタ) |
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3月16日、 心不全のため逝去された、 学校法人物療学園 前理事長 田中信行氏の 「お別れの会」 が、 5月27日、
同学園アリーナでしめやかに営まれた。 =写真= 医療関係者、 学園関係者、 卒業生、 在学生など、 678人が故人に別れを告げた。 式の中で田中博司理事長は 「歴代理事長から受け継がれてきた陽気と冷静さ、内面に秘めた強い情熱を持ち、学園を盛り立てて行きたい」 と挨拶。 在校生を代表して第一理学療法学科3年、 堀 晋之助君が前理事長に感謝の言葉を述べた。 |
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故田中信行氏経歴 | ||
昭和39年、 北海道大学医学部を卒業。 昭和40年、 札幌医科大学大学院外科入学と同時に札幌医科大学胸部心臓血管外科入局。 昭和44年、 米国、 テキサスハート病院心臓血管外科フェロー。 昭和45年、 同、 ロスアンゼルスUCLA病院移植外科フェロー。 昭和46年、 同、 オハイオ州クリーブランドクリニック病院心臓胸部外科レジデント。 昭和48年、 札幌医科大学大学院復学医学博士号取得。 昭和52年、 札幌医科大学胸部心臓血管外科助教授・教授代行。 平成11年、 学校法人物療学園理事長就任。 |
6月18日(日) 堺市大浜体育館剣道場 主催・堺市教育委員会 堺市体育協会 主管・堺市なぎなた連盟 |
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演技の部 小学生低学年 優勝 日山菜々 山本真梨子 2位 下村敏弘 篠本 優 3位 白井裕子 岸本千尋 小学生高学年 優勝 林田智笑 西村咲哉 2位 森 恵士 日山 樹 3位 遠山春希 山口茉理 中学生 優勝 林田葉純 岩瀬友里 2位 藤井浩美 青方志織 3位 青木克仁 岡村菜奈 高校生 優勝 古川由樹 金岡智子 2位 仲谷友里 久留由加里 3位 室谷美佐 室谷佐紀 男子 優勝 森 脩 松本大治郎 2位 猿田行伸 奥田浩之 3位 松下賢也 伊藤淳平 |
試合の部 小学生低学年 優勝 山本真梨子 2位 篠本 優 3位 森 恵士 小学生高学年 優勝 林田智笑 2位 西村咲哉 3位 日山 樹 中学生 優勝 岡村菜奈 2位 松下真実 3位 室谷美佐 高校生 優勝 久留由加里 2位 金岡智子 3位 古川由樹 男子 優勝 猿田行伸 2位 奥田浩之 3位 中村雅文 |
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本誌166号で紹介した、 大枝保太郎さん (堺区市之町在住) が、 6月11日にめでたく、 元気に101歳の誕生日を迎えた。 元気のひけつは 「くよくよ物事を考えない。」 と笑顔で答えていた。 |
「遠くの名所もいいけど、 地元にもいい所がいっぱいあることを知って欲しい。」 という著者 桧本多加三氏の思いを込めた 「堺泉州の隠れた名所99」
(堺泉州出版会発行) が発売された。 本書では、 超善寺の 「友情」 碑や、 泉北ルミナリエなどが、 あまり知られていないエピソードとともに 「面白く」 紹介されている。 定価、 1050円 (税込) お問い合わせ 堺泉州出版会 TEL 072−294−1786 |
戦災死没者のご冥福を祈り、 平和を誓うため、 被災地において慰霊祭が行われる。 日 時 7月9日(日) 19時〜20時30分 場 所 内川河川敷 (栄橋・竜神橋間) 堺市甲斐町西3丁 行 事 慰霊式典、 各ご供養行事 主 催 堺市戦災死没者遺族会 (北尾雅宥会長) 後 援 市校区自治連合協議会 協 賛 立正佼成会 泉州協会 戦災無縁地蔵尊講社中 日本作曲家協会 武田喜明 叶V生社 加藤均 |
通常、 配偶者や親族が死亡した後に相続人である家族が弔慰金、 花輪代、 香典などを受け取る場合、 相続税の課税対象とはならないのである。
しかし、 被相続人が働いていたところの会社から 「弔慰金」 名目で金銭を受け取る場合を応々にしてみかけるが、 このような場合、 課税対象となってしまうものもあるので重々注意が必要である。 まず、 業務遂行上何らかの理由で死亡した場合に、 被相続人の普通給与の三年分に相当する額までは相続税がかからない 「弔慰金」 となり、 又、 業務と関係ない理由で死亡した場合は給与半年分相当額ならば相続税がかからない 「弔慰金」 となる。 以上の上限を超えて受け取る弔慰金についてはその超えた部分が 「退職手当」 とみなされ相続税の課税対象となるのである。 この他に、 勤めていた会社の社長等から受け取る弔慰金で実質上退職手当と認められる金銭等に関しても相続税の課税対象となるので相続税申告にはくれぐれもご注意の程を。 |
税理士 大西 正芳 |